#01 アジアの得点(ASIA SCORING)

欧州が専ら冷戦状態にあった間、アジアは戦場でした。中国内戦から朝鮮戦争、ベトナム、アフガンへと、アジアは冷戦が熱く戦われた場所でした。そういう訳で、アジアは得点に関して2番目に重要な地域と位置づけました。

 

#02 欧州の得点(EUROPE SCORING)

何人かの冷戦歴史的家は、全体的な闘争、数百万人の生命、語れないほど多くのドル、そして世界中の戦いは、ドイツの未来のための戦いだった見ています。その視点はあまりにも近視眼的ながらも、欧州は戦略と力点の最前線であることを思い出させたことは明らかなことでした。欧州での究極的な勝利は、冷戦での勝利を意味していました。

 

#03 中東の得点(MIDEAST SCORING)

1946年、トルーマン大統領は戦艦を地中海に派遣して、ソビエト連邦がイランから部隊を撤退させるよう脅さなければなりませんでした。つまり、冷戦は中東から始まったのです。この地域は西側経済の血液たる石油を供給したので、ソビエト連邦はこの地域へ干渉するとてつもない魅力に駆られたのです。合衆国はイスラエルを支援しましたが、それがソビエト連邦がアラブ世界と結びつくきっかけになりました。そして彼らは繰り返し食い物にしたのです。

 

#04 避難訓練(DUCK & COVER)

(1950)ソビエト連邦の最初の核実験に対して、合衆国連邦議会は連邦民間防衛活動法を制定しました。避難訓練(DUCK & COVER ;伏せて、覆え)は核攻撃に対する注意を促す内容で、おそらくは最も記憶に残った民間の防衛努力のひとつでしょう。一般大衆が信じる戦いのありようを創作したがために、皮肉にもこのような映画は核戦争勃発の可能性を増やしたと言えるでしょう。

#05 五ヵ年計画(FIVE YEAR PLAN)

(1946-1950)1920年代初期、ソビエト連邦は、経済計画と工業開発の中央集権化の妄想に取り付かれました。20を超えるそのような計画が、ソビエト連邦史上、採用されました。経済学者の意見はそれぞれ異なるものの、ソビエト連邦経済に利益よりも混乱をより多くもたらしたとするのが、広く賛同を得られた見解です。

 

#06 中国カード(THE CHINA CARD)

中華人民共和国は冷戦期間中、旋回軸のような役割を演じていました。中国の影響力は大きいながらもアジアの周辺国にとどまり、第二次世界大戦後の世界を制覇しようとする勢力の容易ならざる力の均衡の実現を重視しました。当初はソビエト連邦の同盟国でしたが、冷戦後期には、中国はアジアにおいて、ソ連の影響力と釣り合いをとる勢力になりました。

 

#07 社会主義政権(SOCIALIST GOVERNMENTS)

(1947)第二次世界大戦終結と同時に、左翼的民主主義派による彼らの本分をわきまえた運動により、合衆国は挑戦を受けました。デ・ガスペリ政権下のイタリアでは、共産主義者や社会主義者が政府に参加し、闘争的でした。CIAは多額の資金供与を行い、この運動に対するプロパガンダを実行しました。社会主義政権は1960年代フランスでも発足して再び重要事項となり、イギリスでも左翼労働党が政権が成立しました。

 

#08 フィデル・カストロ(FIDEL)

(1959)堕落のバティスタ政権の後に台頭したのがカストロで、彼は合衆国に幻滅した後、明白なマルクス主義の革命を先導するに至りました。合衆国はカストロ暗殺や政権追放の様々な計画を試みるも失敗を重ね、遂には悲惨な「ピッグス湾事件」を起こすも、またもや失敗に終わりました。その後、キューバの共産主義者はアンゴラとエチオピアのマルクス主義政府に力を貸しました。

 

#09 ベトナム蜂起(VIETNAM REVOLTS)

(1946)ホー・チ・ミンは独立するため、トルーマンの統治に参加しようと繰り返しトライしました。しかし彼の手紙はなしのつぶてでした。英米の支援を受けたフランス政府は、インドシナの植民地を再構築しようと試みていました。その試みは破滅し、ディエン・ビエン・フーの災いを導きました。

 

#10 ベルリン封鎖(BLOCKADE)

(1948-49)ソビエト連邦は、「西」ドイツがが彼らの領域内で独立することをやめさそうと思いとどまらせるために、西側同盟諸国に圧力を強めました。その最初の圧力開始は西ベルリンの封鎖からでした。これを受けて、英米はベルリン空輸を始めました。「復活祭」期間中がそのピークで、毎分貨物便がベルリンに到着していました。

 

#11 朝鮮戦争(KOREAN WAR)

(1950-53)北朝鮮による38度線越境に始まり、朝鮮戦争は国連で最初に弾劾決議を採択されました。韓国の独立を防衛しようとアメリカ合衆国や韓国といった15ヶ国からなる連合軍が編成されました。ヤール河へと迫るマッカーサーの作戦は中国を激怒させ、戦争開始ラインの38度線に戦線は押し戻されました。

 

#12 ルーマニア王退位(ROMANIAN ABDICATION)

(1947)西欧風の君主ミハイⅠ世は脅迫されてその玉座から追われました。ルーマニアはそれ以降、社会主義共和国と宣言しました。最初の共産主義の指導者ゲオルグィウ・デジェの死後、ルーマニアはニコラエ・チャウシェスクによって統治されましたが、それは第二のスターリンと言われるほど、自身の人民に苛烈を極めました。


#13 中東戦争(ARAB-ISRAEKI WAR)

(1948-49,1956,1967,1968-70,1973,1982)イスラエルは戦争の落とし子でした。イギリスの委任統治の後、イスラエルは近隣アラブ諸国の脅威にさらされていました。イスラエルはこれらすべての戦いを優勢にすすめますが、1982年のレバノン侵攻を除いて、占領地から引き上げねばなりませんでした。ヨム・キプール戦争(第四次中東戦争)では、アラブは奇襲攻撃にて勝利に近づきましたが、結局は反撃されて失敗に終わりました。超大国は頻繁に両サイドに介入しましたが、戦いの勝敗を分けたのは結局、アラブとイスラエルの両軍の相対的な能力の差でした。

 

#14 コメコン(COMECON)

(1949-1991)経済相互援助会議(コメコン)はマーシャルプランに対抗して、東欧のソビエト連邦の衛星国の関係強化のため設立されました。発足初期においてはとてもまとまりのない組織運営でしたが、最終的には東欧の貿易の自由と工業合理化を推進するものになりました。

 

#15 ナセル(NASSER)

(1954-1970)汎アラブ運動の巨人の一人でした。ガマール・アブドゥル・ナセルは軍事クーデターを決行して権力を掌握しました。冷戦期間中、独自路線を踏襲し、ソビエト連邦と接近しては西側政府を怒らせ、貿易利益の国営化-スエズ運河がその最たる例-を強行しました。彼の政権下のエジプトはソビエト連邦の客人とみなされ、イスラエルとの戦争ではソビエト連邦の代理を務めてました。大統領就任の18年後に死去しましたが、国内外の敵を変容させることには失敗しました。

 

#16 ワルシャワ条約機構発足(WARSAW PACT FORMED)

(1955)北大西洋条約機構(NATO)発足し西側から攻撃に備えてのリアクションでした。このワルシャワ条約機構にはロシアを中心とした軍事同盟で、ユーゴスラビアを除くすべての東欧諸国が参加しました。これは、軍編成と装備両方をソビエト連邦の様式に合わせるものでした。1968年、アルバニアはこの条約から脱退しました。


#17 ドゴール政権(DE GAULLE LEADS FRANCE)

(1958-1969)ドゴールはフランス第五共和制建国者であり、彼の冷戦期間中の役柄は、彼の二度目の大統領職というレンズを通して評価されることが一般的です。西側の同盟国である一方で、ドゴールはフランスが西側陣営内で独立した声を出せるよう努力しました。彼は独立した核の抑止力を確立し、NATOの単一指揮系統から脱退し、ベトナムについては合衆国の政策について非難しました。彼はまた、ソビエト連邦圏との貿易や文化的結びつきを増進させました。フランスを復活させえるありとあらゆる物の中に、世界におけるフランスの偉大なる正当な居場所を求め続けました。

 

#18 ナチ科学者(CAPTURED NAZI SCIENTISTS)

(1954-1973)合衆国で「ペーパークリップ計画」と命名された作戦は、第二次世界大戦の勝利者が、ナチの科学者を自身の開発人員に加えようと機敏に活動しました。西側陣営でのこの活動のひとつとして科学者の戦犯疑惑を不問にするということも含まれていました。おそらく最も有名な例がウェルヘル・フォン・ブラウンで、彼はアメリカ・ロケット計画の父とも呼ばれています。スターリンは、ソビエト連邦が先にこれらの知識の掌握に失敗したことにうろたえました。

 

#19 トルーマン・ドクトリン(TRUMAN DOCTRINE)

(1947)連邦議会の承認を待たずして、大統領は新しいトルーマン・ドクトリンの宣言を行いました。それは、合衆国の自由経済と政治的社会制度の利益を守るため、強力な介入を行う時代の幕開けを告げるものでした。トルーマンは、「私は、武装した少数派や外敵から強いられる服従に対して抵抗する自由な人々を支援することは合衆国の政治的理念に適うにちがいないと信じています。」と名言しました。このトルーマン・ドクトリンはイギリスの中近東から一大勢力としての役割をやめることによって引き起こされたものでした。この教義の効果は、ギリシャとトルコへの軍事的経済的支援として直ちに表れました。

 

#20 オリンピック(OLYMPIC GAMES)

(1948,1952,1956,1960,1964,1968,1972,1976,1980,1984,1988)スポーツはしばしば超大国間の争いのはけ口となりました。その争いはあまりに激烈なため、オリンピックとて例外ではありませんでした。人類の肉体的な業績において、社会が最も偉大な闊歩を行えるといことを確認する試験的な取り組みとしてオリンピックはありました。それは共産主義思想の「新しい人間」という概念に近いものでした。試合は世界的な政治状況をしばしば反映し、テロリストによるミュンヘン襲撃や、さらには公然とした政治的な道具と成り下がり、1980年モスクワ大会の合衆国ボイコットや、1984年LA大会のソビエト連邦ボイコットがありました。

 

#21 北大西洋条約機構(NATO)

(1949)合衆国のヨーロッパ再構築戦略の第二段として、北大西洋条約機構(NATO)は、ソビエト連邦に敵対する同様のものになりました。しばしばNATOの目的に関する次の格言が言われたものです。「NATOはソビエトを締め出し、アメリカを中に入れ、ドイツを屈服させ続けるために創られました。」

 

#22 独自路線(INDEPENDENT REDS)

(1948)共産党情報局、コミンフォルム(COMINFORM)は、チートー将軍がモスクワの要望を拒絶したために、ユーゴスラビアを追放しました。フルシチョフ書記長時代に、アルバニアもついには同じバスに乗り、ユーゴスラビアに追随しました。一方、ソビエト圏内に留まるチャウセスクのルーマニアは、独立と国粋主義の時々激しい炎でもってモスクワの忍耐の限界を試しもしました。

 

#23 マーシャル・プラン(MARSHAL PLAN)

(1948)6月5日、国務長官ジョージ・C・マーシャルは世界に対して、ヨーロッパのすべてを再構築すると宣言しました。ソビエト連邦の圧力のために、東欧諸国はこれに参加しませんでした。しかし西欧の16の国はこれに加わり、マーシャル・プランは冷戦の究極的勝利への道の第一歩となりました。

 

#24 インド・パキスタン戦争(INDO-PAKISTANI WAR)

(1947-48,1965,1971)イギリスからのインド独立に始まり、この植民地を構成するイスラム教徒とヒンドゥー教徒は戦いに明け暮れていました。パキスタンは昔からこの闘争の負け側にいましたが、合衆国と中華人民共和国に頼り、より強固なインドの防衛能力に対して軍事的信頼性を維持しました。

 

#25 封じ込め作戦(CONTAINMENT)

(1947)外交官であり、ソビエト行動論理学者であるジョージ・ケナンがこの言葉を鋳造し、冷戦初期の期間のソビエト連邦に対して合衆国の政治理念の礎石を形作りました。トルーマン・ドクトリンにおいては早くから適用され、共産主義が既に存在している所から「封じ込める」ことを目的としていました。

 

#26 CIA創設(CIA CREATED)

(1947)第二次世界大戦中、合衆国の諜報を台無しにした諜報機関同士の功争いを終結させることを目的として、トルーマン大統領は、諜報と分析能力、さらには作戦を隠蔽できる能力を兼ね備える合衆国の第一の独立機関を創設しました。ソビエト連邦のよく似た相手、KGBとの40年に渡るネコとネズミのゲームは、伝説的な無価値なお話しになり、冷戦の刻印のひとつになりました。

 

#27 日米安保条約(US/JAPAN MUTUAL DEFENCE PACT)

(1951)9月8日、合衆国は太平洋の宿敵に核の傘を広げました。そうすることにより、日本の再軍備についても、日本近隣諸国の神経を刺激しませんでした。引き換えに、日本はアジアにおけるアメリカの前進基地の宿主として振る舞いました。日本はベトナム戦争や朝鮮戦争の際に不沈空母として効果的に機能しました。明らかに、合衆国はこれら戦争において日本の生産力に頼っていましたが、それは日本の経済的回復に大きな手助けとなり、結果として経済力をつけさせました。

 

#28 スエズ危機(SUEZ CRISIS)

(1956)連合諸国内のある困惑、大国による帝国主義の古いシステムが死んでしまったということに未だ懐疑的な勢力を、このスエズ危機は終わらせました。スエズ運河のナセルのナショナリズムが脅威となり、イスラエルと英仏は銃剣でもってエジプトの政策を変えさせようと共謀しました。彼らは、彼らの無言の決定に対してのアイゼンハワーの怒りを軽く見すぎていました。結局、初期の軍事的成功にも関わらず、アメリカの圧力によりこれら3勢力は撤退を余儀なくされました。

 

#29 東欧動乱(EAST EUROPEAN UNREST)

(1956-1989)ナジはハンガリーをワルシャワ条約機構から脱退させようとしましたために捕らえられたことは最も有名です。また、チェコスロバキアの1968年のプラハの春も同様です。ワルシャワ条約機構の構成国はモスクワの手綱から解かれようと究極的に求めていました。ソビエト連邦の視点から見ると、度を超したもののその効果は破滅につながりえるものでした。ソビエト連邦の戦車は、ソビエト連邦の決定を東欧諸国に守らせる全世界的な象徴になり、必要ならば圧政を隠しもしませんでした。

 

#30 植民地独立運動(DECOLONIZATION)

(1947-1979)植民地から独立する過程の貴重な日々は過酷なものでした。それらの日々は、2つの最も重要な反植民地運動の象徴的な成功に至りました。ひとつは帝国の撤退の閃光で、1947年の英国のインド独立の承認でした。もうひとつの極端な例は、ローデシアの最初の一般選挙で、アパルトヘイト制度の廃止を決めたことでした。

 

#31 共産主義の脅威/追放(RED SCARE/PURGE)

(1945-1989)「敵は我々の内にいる」という恐怖が火花のように走り、「共産主義への脅威」はジョセフ・マッカーシー上院議員を極限までに打ち据え、「反アメリカ人の活動」の公聴会が1950年代の間、開かれました。ソビエト連邦における追放劇は、クレムリン内部で伝統的ににある政治力学でした。加えてスターリンはこの分野でのマスターでしたので、彼が死ぬ1953年には1200万人もの人々が強制キャンプに収容されていました。

 

#32 国連の介入(UN INTERVENTION)

(1947-?)冷戦を終えてなお、常任理事国の拒否権があるがため、国際連合はおよそ超大国間の争いには影響を与えられないままとなりました。しかしながら、時には世界世論の計測器として機能したり、行き詰まった第三世界の紛争を調停することができました。また、国連は事件の背景でもありました。そこでは多くの典型的な闘争の力学が働き、ソビエト連邦が朝鮮戦争決議で欠場したり、「あなたがたを埋めてさしあげる」という演説があったり、そして勿論のことキューバミサイル危機がありました。-ゾーリン大使、翻訳している暇はないのだ!

 

#33 スターリン批判(DE-STALINZATION)

(1956)第20回党大会で、ニキータ・フルシチョフはソビエト連邦でのスターリンの指導を公然と批判しました。この動きはソビエト連邦の内外でみられ、新しい時代の始まりとみなされました。この立証は、ナジーのハンガリーに対する粛清の一因となりました。フルシチョフは、たとえソビエト連邦政府内に刻み込まれた個人崇拝を終わらせようと試みるも、ソビエト王国の東欧の「自由化」を少しも望んでいませんでした。

 

#34 核実験禁止条約(NUCLEAR TEST BAN)

(1963-?)最初の核実験禁止条約はキューバミサイル危機の事態の沈静化に起源がありました。それは今後の大気圏、水中、宇宙での核実験を禁止するものでした。初期の大気圏中核実験が環境への重大なダメージを与えるということを科学的証拠が提示し、この禁止の国際的な圧力は、1950年代に高まりをみせました。地下核実験は論理的に許されていましたが、すべての「平和的な核爆発」もまた禁止され、核不拡散の時代となりました。


#35 台湾決議案(FORMOSAN RESOLUTION)

(1955)合衆国連邦議会は「中国の喪失」をうけて、アイゼンハワー大統領に軍事部隊の展開を含めた中華民国としても知られる台湾防衛の権限を承認しました。この決議は朝鮮半島同様、インドシナ半島の人民共和国からの挑戦に合衆国が直面している最中でしだ。効果的に台湾は合衆国の核の傘の中に座り、台湾海峡の力の均衡は、合衆国の戦略的重要性を今もって問いかけています。

 

#36 局地紛争(BRUSH WAR)

(1947-?)闘争の情熱は低いという特徴がある局地紛争は、一国内または二国間内での地域的勢力の反動という形で始まる傾向にありました。しかしながら、紛争の継続性の強さや超大国の介入によって、特殊な地域的な論争が超大国同士の戦いに発展する可能性がありました。モザンビークの内戦や、エチオピア・ソマリア紛争などがよい例です。

 

#37 中米の得点(CENTRAL AMERICAN SCORING)

中米とカリブ海諸国はアメリカの「裏庭」と「湖」とひんぱんに言われます。1959年のフィデル・カストロの到来とともに、アメリカ人はもはやこの地域は与えられた場所ではないと知りました。合衆国のこの地域で影響力ある共産主義に対する反撃は、ドミニカ共和国(1965)、グラナダ(1983)と直接的軍事侵攻でもって行いました。冷戦末期には、ニカラグア、エルサルバドル、ホンジュラスといった国も、超大国間の戦いの最前線となりました。


#38 東南アジアの得点(SOUTHEAST ASIA SCOREING)

東南アジアでは反植民地主義の過程は超大国の競争と合わさり、他にない死の道を歩むことになりました。マレーシアでのイギリスの暴動鎮圧に始まり、ベトナム、カンボジアでの合衆国の戦争を経て、1979年の中越戦争に終わりました。東南アジアは他に類をみないほどにアメリカの注意を引きました。しかし、アメリカが恥をかいて撤退した後、冷戦下の政治の中心的役割を演じるようになりました。

#39 軍拡競争(ARMS RACE)

(1947-1989)ソビエト連邦と合衆国の軍拡競争は冷戦の間中行われていました。ロナルド・レーガンによりそそのかされた最後の軍拡競争を支えきれずにソビエト連邦は崩壊したと言われます。この二国間の競合は、核兵器と通常兵器両方で行われました。この二つの力には相互作用があったと言われます。冷戦初期の間、(すぐさま第二次世界大戦の軍人を復員させた)合衆国は、通常兵器にて勝るソビエト連邦に対抗するため、「大いなる報復」戦略を実行できる核兵器に頼りました。ソビエト連邦が独自に核兵器を開発した後は、両国は柔軟性ある反撃体制に立ち帰りました。この時代の核戦略の論理は、互いに破壊しあうことを保障する報復の概念でした。その一方で、通常兵器の動的変化も、それなりの運用理論を進めました。西側は、ソビエト連邦の軍経済により生産可能な通常兵器の数に対抗するため、より高性能な兵器に頼りました。


#40 キューバミサイル危機(CUBAN MISSILE CRISIS)

(1962)ほんのささいな接触のこの出来事が、核の大惨事の恐怖を誘い出し、ほとんどそうなりかけていました。1962年10月の14日間、ソビエト連邦が準中距離弾道ミサイルと中距離弾道ミサイルをキューバに配備するにあたり、二つの超大国は直接的な衝突は回避できない運命にあると感じていました。ジョン・F・ケネディはキューバ周辺海域での臨検を行うことを宣言しました。キューバ上空でU-2偵察機が撃墜され、フルシチョフが「キューバからソビエトのミサイルを撤去させるならば、引き換えにトルコのミサイルも移動させよ」と要求した時、緊張は破裂寸前の所まで高まりました。結局、フルシチョフは、合衆国がキューバに侵攻しないことと、トルコに配備されたNATOのミサイルの撤去するという内々の条件に折れざるを得なくなりました。

#41 原子力潜水艦(NUCLEAR SUBS)

(1955)合衆国は最初の原子力機関の潜水艦を就役させました。それは対二次世界大戦中に開発された対潜水艦兵器を10年遅れ遺物に変えてしまいました。ハイマン・リックアーバー提督は新しい原子力の海軍、それは全く新しい第三のもので、一見して打ち破ること不可能で、アメリカの戦略核戦力となるものの編成を監督しました。しかし結局は、ソビエトも対の一着をそろえました。

 

#42泥沼(QUAGMIRE)

(1964-1975)合衆国が、反共産主義者の反乱鎮圧を手助けしてベトナムの事件に巻き込まれ、泥沼にはまりこんだ正確な日を特定することは困難です。しかし、連邦議会がトンキン湾事件決議を採択したことは、他にないくらいな明確なポイントだったように思えます。後から振り返って見ると、彼らは戦っているという闘争のまさに本質を見誤ったがため、合衆国が困惑させられたのは明らかでした。ベトナムの戦いは、前世紀では中国の支配から戦い、次にフランス、さらに日本、最後に合衆国と、基本的に解放を求める戦いでした。アメリカ政府は、自らが「外国の圧政者」の役にはまっていることを決して自覚せず、その事実はベトナムの抵抗勢力を減らしませんでした。多くの植民地戦争と同様に、収支計算は悪化しました。合衆国の関心は、ベトナムで消耗してゆく国際的評価、軍事要員、経済的資源の支出以外にありました。しかし、この超大国の錯誤は長期間に渡り、それこそがベトナム戦争でした。

 

#43 戦略兵器削減交渉(SALT NEGOTIATIONS)

(1969,1972)ジョンソン政権時に始まり、ニクソン大統領とブレジネフ書記長によって最初の戦略兵器制限交渉が結ばれました。この条約は、究極的に核兵器発射装置の数を制限し、相互抑止のシステムが崩れないことを目的としていました。この条約の成功は、2度めの交渉の開始と、SALTⅡの足がかりとなりました。この条約をめぐる外交的口論は、ニクソン大統領の時に始まり、カーター大統領とブレジネフ書記長の間で締結されました。SALTⅡは広範囲の新しい戦略兵器発射装置を制限し、移動式ICBMを禁止しました。ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻を受けて、この条約は批准されませんでした。ソビエト連邦はこの条約を厳守しないとレーガン大統領は力説し、1986年にSALTⅡは期限切れになりました。


#44 熊罠(BEAR TRAP)

(1979-1992)ソビエト連邦の自信過剰と思える時代、ソビエトは古典的な力押しの政治原型に戻り、アフガニスタンに干渉しました。この戦場となった国は、かつてビクトリア朝イギリスとロシア帝国で「グレートゲーム」と呼ばれる争いがありました。ソビエトは、アフガニスタンは彼らの自然なる影響範囲にある場所と考えていました。しかしながら、ソビエト軍がアフガンへ直接侵攻して大統領を追放しましたが、世界世論の反応を根本的に見誤っていました。ベトナムで、より劣った軍隊から痛めつけられた経験から、レーガン政権はアフガニスタンを悪夢に等しい地にしようとしました。十年以上の間に、合衆国はアフガニスタンのイスラム系抵抗勢力やジハード聖戦士に200万ドルもの援助をしました。


#45 サミット(SUMMIT)

(1959,1961,1972,1973,1974,1979,1985,1986,1987,1988,1989)冷戦中期より、超大国の主導で開かれたサミットは、民主主義国家の意見調整の場となりました。成功は政治課題の条項が守られるか、条約が交わされるか、誰が誰より交渉上手だったかといった点で測られました。ボクシングの国際試合と同様に、どこが優勢なのか認識するために非同盟諸国は脇からこれを見ていました。実際のところ、ひとつのサミットにおける全主要国の合意点は管理されており、儀式的で結論は決まっていました。その視点から見れば、サミットは身内の意思を拡大する重要な道具で、冷戦が熱くならないよう保障しました。


#46 私は如何にして心配するのを止め(HOW I LEARNED TO STOP WORRYING)

(1964)核戦争による大規模な殺戮の現実化が一般に認識にされるにつれ、終末思想が必然的に台頭し、人々の心を支配しました。このブラックコメディの金字塔、博士の奇妙な愛情は、この新しい流れを取り入れたものでした。しかしながら、その態度は厳しくもユニークなものでした。同様の人類の究極的な破滅を言う終末思想はこの時代の文学のそこかしこで発見でき、SFのサブジャンルとして輝きました。核戦争後を扱う三文小説には、アトミック・ミュータントや現代文明のかすかな遺物に満たされていました。皮肉にも、これら創作物に影響をうけたこの悲観主義は、「想像できる」行為は現実化しうるという点で、核戦争の可能性を上昇させたのかもしれません。


#47 フンタ(JUNTA)

(1945-?)スペイン語で、フンタは「一緒にやって来る」という意味です。冷戦用語においては、右派軍閥が現政権を追放し、軍事的独裁を打ち立てるために一緒にやって来るというのが一般的です。冷戦期間中、フンタはラテン・アメリカではあまりに一般的でしたので、彼らにとっては儀式的なささいな出来事に成り果てていました。軍事的フンタが、中南米の左翼政権に目をつけた合衆国政府の暗黙の祝福を喜んだのは一度や二度ではありませんでした。アルゼンチンでは1976-1983、ガテマラでは1954-1984の間、軍事独裁を行ったフンタあたりが特筆すべきものです。

 

#48 キッチン討論(KITCHEN DEBATES)

(1959)スプートニク号発射成功により緊張が高まる頃、リチャード・ニクソン副大統領はロシアへ外遊の機会を得ました。モスクワ滞在中、ニクソンとニキータ・フルシチョフは、時には冗談を、時には議論を戦わせました。キッチン討論と呼ばれる議論は、GE社家電製品のモデル展示を前にして、鋭く戦わされました。ニクソンは家庭内での共産主義不要論を主張し、フルシチョフの胸をつつくようなしぐさを交えながら、彼の生活に密接した政治理論を整然と語りました。


#49 ミサイル羨望症(MISSILE ENVY)

(1984)ヘレン・カルディコット博士により鋳造された言葉は、冷戦は女性蔑視を伴った男性のエゴにより進められているというフェミニストの一般的な批判を反映しているものです。ある者は「長期潜行スパイ」や「複数弾頭」といった専門用語について調べる一方、ある者はそういった指摘に驚いています。カルディコットは、社会的な反応適性を向上させる医者を見つけようと活動し、彼女の著書は反核運動の結集点にもなりました。


#50 「あなた方を埋めてさしあげる」(WE WILL BURY YOU)

(1956)冷戦全期を通しておそらく最も有名な台詞で、ソビエトのニキータ・フルシチョフは、モスクワのレセプションの時に西側諸国大使を前にしてこの暴言を吐きました。この言葉をもってフルシチョフは、西側の弱点と好機を探っている、そういった時期にあることを公言したのでした。ベルリン危機がこの膨張主義を実証しました。

#51 ブレジネフ・ドクトリン(BREZHNEV DOCTRINE)

(1968)ブレジネフはブラハの春に際して、ブレジネフ・ドクトリンはソビエト連邦の事実上の政策を明白にしたものだと、ポーランド労働者の群集を前に宣言しました。すなわち、現社会主義国家は社会主義を放棄することも、中立になることも許されないという、ものでした。このドクトリン(教義)はアフガニスタン侵攻に対する反応のソビエトの計算違いにつながってゆきました。彼らは、アフガン侵攻をこのよく理解されたドクトリンのちょっとした応用だと考えてました。


#52 ポルトガル帝国の崩壊(PORTUGUESE EMPIRE CRUMBLES)

(1974)ポルトガルはアフリカの植民地を放棄した最後のヨーロッパ勢力でした。NATOに加盟する傍ら、アントニオ・サラザールに独裁されていました。彼は植民地を維持することが、ポルトガルの国家としての地位を保持することだと感じていました。にもかかわらず、独立運動家の活動を弾圧したことは、他のNATO同盟国と同様に、新たに独立した国々から批判を買いました。遂には、民主的な政権発足に伴い、植民地維持を断念しました。間もなく、ポルトガルのアンゴラとモザンビークの植民地は、内戦に突入し、アフリカ大陸の東と西との大発火点になりました。


#53 南アフリカ動乱(SOUTH AFRICAN UNREST)

(1964-1994)人種差別主義者、南アフリカの少数側政権は、ソビエト、キューバによる支援を受けたタンザニやザンビアやその他最前線の国々を拠点とするアフリカ民族会議から挑戦を受け始めました。平和的な抵抗運動の時代は、シャープビルとランガの大虐殺で終わりました。その一環として、南アフリカは、近隣諸国を不安定にさせようとしました。人種差別政権はナミビア撤退を拒絶し、アンゴラ近隣ではアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)にてこ入れし、モザンビークではモザンビーク民族抵抗運動(RENAMO)を背後で操りました。しかし、黒人人口の増加により、力を増した黒人はいろいろな国々と交渉し、遂には、南アフリカは防衛に専念せざるを得ないような西側からの圧力がかかりました。レーガン政権は、「建設的な協力関係」政策を進めましたが、それは内外で論争を呼びました。東側が崩壊してしまうと、西側もピーター・ウィレム・ボータ政権から手をひいてしまったため、最終的にはネルソン・マンデラ政権が発足しました。


#54 サルバドール・アジェンデ(ALLENDE)

(1970-1973)医師サルバドール・アジェンデは、チリ最初の社会主義政府首班として民主的に選ばれました。アジェンデは、チリの最大輸出商品である銅の国営化に向けて素早く動き回りました。それら鉱山はほぼ、合衆国企業ケネコットとアナコンダの二社に所有されていました。合衆国との関係はすぐさま冷え込み、1970年、CIAはクーデーターによる政権転覆を支援しました。しかしこれに失敗するも、さらに西側は経済封鎖を発動しアジェンダ政権は続く2、3年のたうちまわりました。1973年、アウグスト・ピノチェト率いる軍部は大統領官邸に流血の突撃を行い、アジェンデ政権を放逐し、アジェンデは自殺しました。


#55 ウィリー・ブラント(WILLY BRANDT)

(1969)若き日はナチスと敵対し、熱烈なる社会主義者であるウィリー・ブラントは、ドイツ社会主義労働者党を率いて、1969年、連邦首相となりました。彼は同じ実利を志向して東西協調を実行しましたが、それは西ベルリン市長時代からも彼を特徴づけるものでした。ブラント政権での東方政策とは、西ドイツはソビエト連邦やポーランド、チェコスロバキアと普通の関係をになることでした。ドイツの再統一を放棄しない傍ら、不可侵な境界線が存在することを痛感し、東ドイツとも普通の関係の構築を模索しました。最終的には、致命的なスパイ疑惑により彼の政権は引きずり降ろされました。

 

 

#56 イスラム革命(MUSLIM REVOLUTION)

(1979)中東一帯の現世のアラブとイスラム教国は堕落、抑圧、無能を露呈しているという観点から、イスラムのより過激な一派が台頭し始めました。エジプトでも見つけられるムスリム同胞団は、シリアにおいても世俗的な政権を倒そうとしていました。それは、これらの国々の中で弾圧のサイクルを進め、専制的支配を進める結果となりました。同様なサイクルがモハンマド・レザー・パーレビー統治下のイランでも見られました。合衆国及び西側諸国の地域同盟国として久しい国でしたが、シャー(王)は、反西側のアーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニーの民衆革命によって退位させられました。この出来事は、現代において最初の神政政治復活の先導役となりました。イランのイスラム律法学者は、革命を他のシーア派の国々に波及させようとして、20世紀の残りを費やしました。


#57 弾道弾迎撃ミサイル制限条約(ABM TREATY)

(1972)弾道弾迎撃ミサイル(ABM)条約は、戦略的バランスのかなめである相互確証破壊システムを崩さないことを目的とするものでした。ABM条約は両超大国に核攻撃からの防衛手段を制限するものでした。理論的に、第一撃の防ぐために、成功率の安定しない防御システムを構築するすることが不必要になりました。両国はABM配備基地を首都とICBM基地一つの2箇所にのみ配備が許されました。ソビエト連邦はモスクワ周辺にその基地を建設したました。合衆国もグランド・フォークスとノース・ダコタに建設したましたが、最終的にはこれを破棄しました。


#58 文化大革命(CULTURAL REVOLUTION)

(1966-1977)文化大革命は、本質的に中華人民共和国内部での後継をめぐる権力闘争で、それは国外より見える大いなる結果でした。毛沢東は、中国共産党内部穏健派から過度に権力より疎外されていると感じ、イデオロギー的純潔を取り戻すべく、そして次世代の革命家を鍛え直すべく激しく活動しました。紅衛兵創設、弾劾、追放騒動の結果は、中国内戦の危機をもたらしました。また、中国とソビエト連邦の間の亀裂は、より公然と言われるようになりました。しかし、無政府主義や孤立主義のこの時代、不可能と思われていた合衆国との友好関係樹立がなりました。ニクソン政権が就任すると、中ソ両国の溝はさらに広がりました。

#59 反戦運動(FLOWER POWER)

(1965-1970)詩人アレン・ギンズバーグの造語「フラワー・パワー」は1960年代の非暴力と平和の象徴でした。ライフルの銃口にヒナギクの飾りを、という格調ある一文や、反戦スローガン「愛をはぐくめ、戦争ではなく」などがありました。フラワー・パワーはベトナムでのアメリカの経験に由来する、軍事力行使の普遍的葛藤の象徴でもありました。

#60 U2事件(U-2 INCIDENT)

(1960)合衆国は、1955年から、ソビエト連邦の対空兵器圏内の高度外での監視飛行を行いました。しかし、1960年5月、ソビエトの対空ミサイルSamⅡがソビエト領空内でフランシス・ゲーリー・パワーズの機に命中しました。機体、パイロット、ギアはソビエト連邦に捕獲されました。この事件は、アイゼンハワー政権を大いに困惑させ、彼らは当初、事実を否定しました。U-2撃墜成功は超大国の関係を冷却させ、ソビエト連邦の政治宣伝として利用されました。

#61 OPEC

(1960)石油生産国が原油価格をよりコントロールするため、つまりは価格を決めるために設立されました。OPECは、世界原油埋蔵量の3分の2を、世界輸出量の約半分を占める団体へと成長しました。OPEC創設は、エクソンやブリティッシュ・ペトロリウムのような西側大企業による世界の石油市場支配に大きな一撃を与えました。ベネゼイラ、インドネシア、ナイジェリアといった中東諸国以外の加盟がある一方、中東諸国の支配力は強まりました。その結果、この地域での政治的問題を調停するようにもなりました。OPECはヨム・キプール(10月)戦争でイスラエルを支持した西側諸国に原油輸出を拒否したことが最も有名です。その結果、西側では供給制限が課され、価格は400%上昇しました。

#62 ケネディ暗殺(”LONE GUNMAN” 孤独な狙撃手オズワルド)

(1963)テキサス、ダラスで遊説中、ジョン・F・ケネディ大統領はリー・ハーベリー・オズワルドによって暗殺されました。二つの委員会、ウォーレン委員会と下院特別調査委員会はオズワルド単独犯行か否か、異なる見解となりました。どちらにせよ、大統領の死の状況はパニックとなって国内を走り抜け、マフィア、キューバ政府、KGB、はたまたアメリカ自身のCIAが策動したとする陰謀論を主張する豊富な機会を作りました。合衆国内の高度に政治的な一連の暗殺、マーチン・ルーサー・キング牧師、ジョン・ケネディの弟(大統領補佐官でもあった)ロバート・ケネディ暗殺の始まりでもありました。この時期の悪い死はアメリカ国民にショックを与え、ベトナム時代の 不調をさらに重くしました。

#63 植民地守備隊(COLONIAL REALGUARDS)

(1946-1988)東西冷戦は徐々に進化する世界システムに煽られていました。数カ国から成る帝国同士の多極システムを世界が放棄して以来、それは2大大陸国家による二極システムに置き換わりました。植民地支配列強は今では西側主要構成国であるがため、反植民地運動は反西側感情に強く傾きがちでした。さらに、独立への道のりはひとつではなく、ましてや成功も保障されていませんでした。新独立国と準植民地関係を維持しようと、あるいは植民地そのものを維持しようと植民地支配列強は植民地守備隊を多くの場所で長く駐屯させました。イギリスのマレーシア介入(1948)、アルジェリア独立に対すするフランスの抵抗(1954)、ナミビアにおける南アフリカの妥協しない態度(1966)などが植民地時代終わりの局面を示す例でしょう。

#64 パナマ運河返還(PANAMA CANAL RETURNED)

(1970)国粋主義右派から広く非難をあびながらも、カーター政権はパナマ運河を返還し、この決定は広くラテンアメリカで支持されました。この運河は、第一次、第二次両大戦においての米海軍の戦略的生命線でした。しかし、朝鮮戦争の時代、もはやこの運河は現代戦闘艦艇を収容するには不十分でした。米軍の用途が激減し、その一方でアメリカ帝国主義の残骸物は政治宣伝としての利用価値が増してゆき、カーターは、ゆるやかに運河を返還することが最善の政治的態度であるとの現実的な判断を下しました。

 

#65 キャンプ・デービッド合意(CAMP DAVID ACCORDS)

(1978)中東和平への道筋が1976年大統領選挙で課題でしたが、この問題で新しいエネルギーが充填され爆発がありそうな頃、カーター大統領はその職に着きました。個人的なアピールでもって、カーターはヨム・キプール戦争の究極的な解決を達成し、中東問題での位置関係を根本的に変化させました。イスラエルとエジプトは通常の関係になり、中東での平和への枠組みが合意に達しました。これは、数年後のオスロ合意、ヨルダン-イスラエル平和合意につながるものでした。加えてカーターは、エジプトの全領土を保障しました。かつてナセル・エジプトは反西側感情の温床でしたが、エジプトはこの地域での最大の同盟国となりました。サダトはその弁舌でリーダーシップを発揮しましたが、高い代償を支払うことになりました。彼は1981年イスラム過激派により暗殺されました。

 

#66 傀儡政権(PUPPET GOVERMENTS)

(1949-?)これは冷戦時代独特の概念ではありませんが、「傀儡政権」という用語は、ソビエト連邦または合衆国のために働き、それらの国の支援を受けている政治体制を指す時に使われます。この嘲笑的な言葉は、常に敵側が政府の正当性を傷つけるために使用されます。ソビエト連邦、合衆国両国は、相手方の緊密な同盟国にこの言葉を使いました。よく知られている例が、南ベトナムのジエム政権、エチオピアのマリアム政権です。

 

 

#67 対ソ穀物輸出(GRAIN SALES TO SOVIETS)

(1973-1980、1981-?)1973年、異常気象と大凶作が襲い、ニクソン大統領はソビエト連邦への大量の穀物売却を許しました。ロシア人のプライドを打ちのめす傍ら、この施策は両超大国が通常の関係になるためのたゆまない一歩となりました。さらにこのことは、この二国間の経済関係において雪解けを続けさせる民間の圧力として働きました。1980年、カーター大統領は、ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻をうけて、この施策を中止しました。1年後のレーガン大統領政権下で輸出は再開され、年間のソビエト連邦が合衆国に買い付ける量は900万トンにもなりました。

 

 #68 ヨハネ・パウロⅡ世教皇選出(JOHN PAUL II ELECTED POPE)

(1978)初めてイタリア人でない教皇が選出された16世紀以来のヨハネ・パウロⅡ世選出は、全世界に影響を与えるカトリックの若返りの象徴となりました。合衆国は、その歴史上はじめてこの時に、公式な外交的な教皇権を認めました。共産主義の国ポーランドから選ばれた教皇、ヨハネ・パウロⅡ世は、ポーランドのリーダーシップのための莫大なチャレンジをあらわにしました。新しい教皇を非難することは大衆を遠ざけるだけにしかならず、それを抱擁することは、共産主義者の戦略と真逆のことになりました。しばらくすると、ヨハネ・パウロⅡ世は共産主義の痛烈な批判者として知られるようになりました。ヨハネ・パウロ選出は、連帯の運動が最高潮に達するなど、ひとつのポーランド国内政治のターニングポイントだったと記憶されました。ミハイル・ゴルバチョフは、ヨハネ・パウロⅡ世なくして鉄のカーテンが落ちることはなかっただろうと回述しました。

 

#69 ラテンアメリカ処刑部隊 (LATIN AMERICAN DEATH SQUADS)

(1960-1989)冷戦全期を通して、左翼、右翼政府ともに、反動勢力を支援しました。それら反動勢力は、政府を脅す反動活動を行うに際して、不相応な力に訴えました。これはラテンアメリカの右翼政府の特別な好みでしたが、左翼政府もまた、手際よく暴力を使用することを証明していました。エルサドバドル、ガテマラ、コロンビアは、殺し屋を政府が差し向けるといった恐怖の実例を残しました。ガテマラのオソリオ大統領の「これは墓場にいる国家を平和にするために必要な措置である。私はそれを行うことに躊躇しないだろう。」という言葉は有名です。

 

#70 米州機構設立(OAS FOUNDED) 

(1948,1967)西半球の民主主義体制の強化を目的として米州機構は設立され、西半球において合衆国の政治宣伝媒体として時によく機能しました。キューバ危機やグラナダ侵攻においては、合衆国の国際的な正当性を与えました。1967年、ブエノスアイレス宣言では、貿易条項と経済開発が追加されました。その後、国連総会開催に併せて、本部はワシントンDCに改められました。

 

#71 ニクソン訪中(NIXON PLAYS THE CHIANA CARD)

(1972)合衆国が南ヴェトナムから撤退するための鍵が、中国と関係正常化でした。nニクソンは毛主席との首脳会談を求めました。ニクソンは訪中の地ならしとして、周恩来外務大臣と極秘交渉を進めるべくキッシンジャーを特派しました。この中ソ関係悪化に向けた投資を行うことは、ニクソンがたたき出した冷戦中の最も偉大な外交的革命でした。この首脳会談で採択された上海宣言は、この二国間にあるいくつかの根本的な意見不一致をそのままにして、さらにはベトナムや台湾をも置き去りして舞い上がりました。また、ソビエト連邦はもはや中国なくして地域紛争を支援できないということを白日の下にさらしました。ニクソンがこの二国間の関係強化に急いだものの、ウォーターゲート事件がこの計画を中断させました。この二国間の外交はジミー・カーターにゆだねられることになりました。

 

#72 サダトのソビエト追放(SADAT EXPELS SOVIETS)

(1972)アンワル・サダトは、英国が支援しているエジプト王国に敵対する反植民地運動に早くから参加していました。彼はナセルの下で副首相となり、政権を継いだ後、ソビエト連邦との関係が悪化する流れをそのままとしました。ソビエトはエジプトの軍事的経済的援助の増額を断り、エジプトは足場を保つのが困難になりました。その結果、サダトは5千人もの軍事顧問と、1万5千人もの空軍兵員をエジプトから追放しました。1973年戦争で中東和平が破たんの後、サダトはワシントンと親密な関係こそが必要だと確信するようになりました。

 

#73 シャトル外交(SHUTTLE DIPLOMACY)

(1973)輸送技術やコミュニケーション技術の発展を活用した個人的結びつきを重視した外交、すなわちシャトル外交とは、ヘンリー・キッシンジャーが国務長官としていかに優れているかを証明することばでした。ヨム・キプール戦争勃発後、イスラエル=エジプト間の停戦の仲介人として活躍したことは最も有名でした。個人的にイスラエル=エジプト間を行き来することにより、キッシンジャーは交渉の中心的役割を占めるとともに、合意形成におけるソビエトの影響力を最小化させました。キッシンジャーは同様に合衆国と中華人民共和国との関係正常化においても似た役割を果たしました。

 

#74 放送局:アメリカの声(THE VOICE OF AMERICA)

(1974)戦時情報局によって1942年に設立されたVOAは、当初、ナチスに占領された欧州向けの放送を行っていました。1947年、その任務はソビエト連邦支配下向けに変更されました。VOAは世界中で最もよく知られた国際放送のひとつになりました。これは、メディアが国家管理下にある東欧圏において強力な外部情報源となりました。自由欧州放送や自由アジア放送とともに、VOAは冷戦中の公的な外交的施策の記念碑となりました。

 

#75 解放の神学(LIBARETAION THEOLOGY)

(1969-?)第二バチカン公会議の自然な成り行きとして、解放の神学はイエス・キリストが解放者であることを強調しています。この神学的なこじつけはラテンアメリカ、とりわけそのキリスト教系教団内で流行し、保持されました。ヨハネ・パウロⅡ世がこのマルクス主義者の温床に触れるまで、解放の神学は個人主義的な僧侶や第三世界の信者たちの間で最も普遍的でした。今でも、この社会正義の強調重視姿勢や、資本主義者に対する批判的態度は、広い意味での教義に取り込まれ、残っています。

 

#76 ウスリー川紛争(USSURI RIVER SKIRMISH)
(1969)中国が最初の核実験を行い、関係悪化の一途をたどった数年後、中華人民共和国とソビエト連邦は長くて小穴の多いその境界線で衝突しました。ウスリー川とアムール川の所有権は不確かなままで、紛争の源となりました。国境の両側で軍隊は編成され、緊張がいくつかの紛争を生じさせました。全面戦争を避けながらもこの戦いは、中華人民共和国の興味が米国との早期関係改善へと注がれることにつながりました。

 

#77 「国があなたに何ができるかではなく…」("ASK NOT WHAT YOUR COUNTRY CAN DO FOR YOU・・・")
歴代大統領就任演説の中でも最も力強いく影響力を与えたこの一文により、ケネディ大統領は冷戦中のアメリカを自信にあふれ不屈の闘志にあふれる時代へと導きました。ケネディは献身という意味を一新させ、政府が支援する科学者には野心的なゴールへと向かわせ、ボランティア平和部隊のような公的な援助へと若者を駆り立てました。国家が求めるものに対しての無私なる献身という彼の呼びかけは、アメリカの若い世代を休みない情熱へと駆り立て、彼らは世界に自らの足跡を残すよう熱望するほどになりました。

   

#78 進歩のための同盟(ALLIANCE FOR PROGRESS)
(1961-1973)ケネディ大統領より始められたキューバの中南米での影響力拡大抑止政策、すなわち進歩のための同盟は、北米やラテンアメリカの経済成長を助けました。この施策には土地改革、民主主義の再適正化、税の公平化といった事柄も含まれていました。60年代後半から、合衆国はヴェトナムと南アジアで完全に紛争に巻き込まれてしまっていたので、そうならないよう弱ったラテンアメリカを支援しました。それ以降、若干のラテンアメリカ諸国が要求に応じた改革を約束し、実行しました。結果的には、米州機構にて1973年に進歩のための同盟評議会を「永久に」解消することになりました。 

 

#79 アフリカの得点(AFRICA SCORING)
冷戦中のアフリカの歴史は、大陸特有の約束と悲劇に彩られています。まず最初に植民地支配からの早期脱却という政治的成功という浮標を示したものの、その歓喜はたちまち冷笑に変わりました。ひとつが終わればまた次へと、新しく独立した政府は、「終身大統領」、政治的堕落、経済的混沌、そして民族主義的暴力へと堕ちてゆきました。資源の不足という超大国の弱みをすばやく取り込み、アフリカの諸政府は経済力を最大に強め、軍事的支援を受けました。植民地主義後のこの時代、この大陸では実に様々な内戦が戦われました。中でも、アンゴラ、モザンビーク、チャド、エチオピアなどは、資本主義か共産主義かの世界的闘争の大義名分によって内戦を経験した少数の国でした。

 

#80 小さな一歩だが…("ONE SMALL STEP...")
(1961-1969)宇宙開発競争においてソビエトに後れをとって数年後、合衆国は「月面レース」の後れとりかえすべく、その鋭い知性と経済力をフルに活用しました。ケネディ大統領はマーキュリー計画を開始しました。究極的に、NASAは人を月世界に送り込むための幾多もの障害を克服しました。ニール・アームストロングは宇宙船から降り立ち、月面に最初の第一歩をしるした人類でした。彼は不滅のこの名言を発しました。「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。」彼がそうしたことにより、アメリカ市民は超大国間の宇宙開発競争に逆転勝利したのだと確信しました。

 

#81 南米の得点(SOUTH AMERICAN SCORING)

不安定な性質の懸案を解決するため、この地域には強力な人々や軍事評議会になびく傾向があります。それこそが、冷戦期間の間じゅう左翼により引き裂かれる南米の原因となっていました。また、ナショナリズムと世界的な反帝国主義感情の高まりが、合衆国と南米の国々との関係を特徴付けました。ソビエト連邦は最初のいかなる提案を呑むことによって、彼らを食い物にしようとしました。そして、アルゼンチンとのように閉じた関係形成に成功しました。この地域での最大の敵対勢力消去の出来事は、チリのサルドバール・アジェンデ政権に対してCIAが扇動したクーデターだと言われています。

 

#82駐イラン米大使館人質事件(IRAN HOSTAGE CRISIS)
(1979-1981)復古主主義を目的とする反動的的暴力が、ムハンマド・レザー・パーレビー、すなわちアメリカ支援を受ける抑圧的なイランのシャー政権を襲い、イスラム革命がアメリカ大使館を吹き荒れ、65名のアメリカ人は444日拘束されました。新しいイラン神権政治の指導者アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニは過激は反米主義者で、彼は支持者を反西側行動に駆り立てました。カーター大統領は二つの作戦の実行に着手しましたが、どちらも中止になりました。そのうちの一つは、米軍とカーター政権にとっては屈辱的な惨事になりました。カーターが1980年の選挙シーズン中に人質解放できなかったことは、選挙の大敗北の原因だったとしばしば言われました。最終的には、1980年にイラクがイランを侵攻したのをうけて、この危機を終結させる余地が生まれてきました。アルジェリアの仲介を用いてようやく交渉は成立しました。カーターが最後の非難を受ける一方で、1981年1月20日、レーガン就任の20分後に人質はアメリカの保護下に移されました。

 

 

#83 鉄の女(THE IRON LADY)
(1979-1990)合衆国の「レーガン革命」の数多の前兆のひとつ、マーガレット・サッチャーは英国の保守運動を活性化させました。熱烈な反共産主義者のサッチャーは、ソビエトの新聞紙ザ・レッド・スターから「鉄の女」のあだ名をもらいました。サッチャーはロナルド・レーガンの完璧なパートナーとなり、共に戦後の大西洋同盟の要(かなめ)となって「特別な関係」を新たにしました。サッチャーが最も輝いた瞬間は、フォークランド諸島での英国の植民地防衛に多大な尽力を行った時かもしれません。この軍事的紛争は、マルビナス島(西語名)にアルゼンチンが軍事侵攻したことにより始まりました。鋭く、短期間の攻撃で、英国はアルゼンチンを追い払い、大英帝国の建設者としての小さな栄誉を満たしました。サッチャーは冷戦末期の間、長く政権を維持し、英国史上、最も長い期間、首相を務めました。

 

#84リビア空爆(REAGAN BOMBS LIBYA)
(1986)ナセル暗殺後も石油マネーで力を持つ男、ムアンマル・カダフィーはアラブ世界のリーダーとしてリビアの栄光を求めていました。カダフィーは、自らの意思を証明するらめに、西側へのテロ支援国へと国を導きました。やがて、イランが新しいタイプの反西側国とみなされると、カダフィーは西側を中傷しては宗教的慈悲あふれるところをもみせつけました。シドラ湾事件では事態は拡大しませんでしたが、西ドイツでのディスコ爆破によるアメリカ人技師殺害事件については、合衆国は即座に報復に移りました。標的はカダフィー本人の殺害に限定され、彼の私邸が爆撃されました。彼は死から逃れたものの、その国際的な名声は大いに曇りました。
 

 

#101連帯(SOLIDARITY)
(1980-?)ポーランドのグダニスク造船所から始まった労働組合運動の連帯は、東側内部にある反共産主義の焦点になりました。連帯はあっという間に単なる労働者運動の枠を超えて活動し、カトリック信者、知識層、その他の反体制派たちを呼び集めました。ワルシャワ条約機構構成国内でのこの寛容には前例がなく、ソビエト連邦、ポーランド人教皇ヨハネ=パウロ2世、政治的に勇気ある連帯のリーダ、レフ・ワレサらの意向を精密なまで調べ上げた上でのギリギリの駆け引きが行われました。ヴォイチェフ・ヤルゼルスキー体制下、ポーランドの共産主義者は連帯を弾圧し、指導者たちを投獄しましたが、組織は地下へ潜ることにより再生し始めました。1988年には、連帯は大規模ストライキを実行するに至り、ポーランド共産主義者と公の場で交渉する力を手に入れました。